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★ ぺリリュー島への単独慰霊 ★
  ★ ぺリリュー島について
  ぺリリュー島は,フィリピンの東方,パラオ諸島南西部にある東西3キロ,南北9キロという縦長の島です。第2次世界大戦においてアメリカ軍と最も激しい戦闘が繰り広げられた場所です。それというのもぺリリュー島には,日本海軍の主要な飛行場があり,その軍事的な利用価値から,フィリピン奪還を目ざす米軍にとって,まずは奪還しなければならない島だったからです。米軍は特殊訓練を受けた超エリート軍人約4万人,日本は,第14師団ほか約1万人の精鋭部隊(主に北関東)の戦いです。ペリリュー島以前の戦争は,「バンザイ突撃」という状態の戦争が多かったとのことです。しかし,この島は,日本の大本営の意見で『日本の国防のための防波堤になれ!(日本への総攻撃を少しでも防ぎ,一時でも長く持ちこたえてくれ!)』という考えで持久戦・ゲリラ戦となりました。
   激戦で有名な場所としては 硫黄島などがあげられますが,第2次世界大戦当時,米国軍人の死傷者が一番多かったのは ここでの戦いです。日本軍は,上陸前に準備しておいた洞窟や防空壕で応戦しました。しかし,米軍は世界で最初に火炎放射器を使用したり,海上からの艦砲射撃と爆撃で攻めたりしてきました。その結果,お粗末な武器にもかかわらず死闘を続けましたが2か月半程で玉砕となりました。  (参考資料  日本軍の戦車は,17輌,米国軍の戦車は,117輌でした。また,日本軍の武器(銃)は,単発式の三八式歩兵銃,米国軍は80%が自動小銃でした。)
   以上のようなことから,平成15年4月に先の天皇皇后両陛下が,祖国を遠く離れた地で戦没した帝国陸海軍将兵を慰霊するためにパラオ共和国に行幸啓されました。
  ところで,私がなぜこの島に「単独慰霊」に出かけたかと言いますと,実は私の叔父が第14師団として出征し戦死したからです。叔父の名前は「政一」でした。その名前の中にある「政」を私が引き継いだからです。それが,戦後60年の区切りの年に単独慰霊に出かけた理由です。      以下,その時の画像です。

@ マリンブルーの海上からぺリリュー島へ                  A ぺリリュー島の港にあるお迎えの看板  
  ◎一見綺麗だが,海中には日本軍の沈没船,近くの島には戦時の弾薬庫がありました。(左画像)
 

B 山中の洞窟内にある旧日本軍の大砲                         C 多数の銃弾痕が残る日本軍通信局跡
  ◎戦死した叔父〔大砲の方位と角度を決定する任務〕が関わったと思われる大砲(左画像)    
 

D日本の戦車(鉄板が薄くコンパクト)                       E 米軍の大型戦車(水陸両用)多数あり
  ◎最初に見つけた戦車に慰霊の所作(お神酒等)をしましたら何と米国の戦車でした。(右画像)    
 

F 通称『オレンジビーチ』(米兵の血で)                  G 浅海の海中 (熱帯魚が平和に泳ぐ)
  ◎ぺリリュー島に上陸して来る米兵に防空壕等から一斉射撃で海がオレンジ色に!(左画像)     
 
※ 学校関係からの依頼が多い人権関係講演で披露する演題の一つ『20分間世界一周』ここで紹介する10か国のうちの一つです。世界平和を願っております。(田螺踊理)